きっかけは、さかのぼること1977年
小学校1年の時、おぼろげにフジテレビを見ていたら、バレーボールのワールドカップが放送されていた。そのときの印象は、白井貴子の顔が妙に怖かったこと(笑)、他の国の監督が今で言うジャージ姿だったのに、一人だけスーツ姿で、ダンディズムを気取っていた山田重雄。そして、当時一番可愛かった中国の楊希に幼心に萌えていた(爆)。でも、試合として俄然注目したのが、女子が完勝で優勝した後に行われた男子であった。特に、猫田勝敏の天井サーブと森田淳悟のドライブサーブは、見てくれのインパクトが強烈なだけに、興味津々で見ていた。そして、もともと日本リーグを東京体育館まで見に行くほど好きであった父親に連れられて代々木第一体育館に行った試合が、日本vsポーランド戦であった。猫田の天井サーブや森田のドライブサーブを生で見て確かに驚いたのだが、それ以上にインパクトがあったのが、ポーランドの金髪の貴公子ともいえる跳躍力のすごい選手であった。後に知ったのだが、それが、バックアタックを一般的な戦略として広めたボイトビッチであった。そして、中学生時代、同じクラスの女子が、ブロマイドやバレーボールマガジンを見てわーきゃー言っていたのが、熊田康則、井上謙、川合俊一の3人であった。そして、このころが日本リーグも絶頂期で、ワールドカップ以外にも、テレ朝ではジャパンカップなんていう国際大会を催していたし、一番もうけていた時期だと思う。結局、これが、今の低迷の現況(とりわけ男子の場合)になっているように思う。もっとも、このころから、川合や熊田のアイドル的な人気ぶりには眉唾おので斜に見ていたのも事実である。77年のワールドカップから2年経って、モスクワオリンピックのアジア代表予選(バーレーン開催の記憶が。当然中継はテレビ朝日の独占中継(笑))で、中国や韓国に完敗して、出場権をとれなかった(結局ボイコットで日本は全種目不出場)試合を見ていて、世の中そんなに甘くないということを見てしまったからかもしれない。
そして、小平市住民としては決して忘れてならない存在が日立武蔵(ベルフィーユ)である。中田久美や大林素子といった大御所よりも多治見麻子や小高笑子といったいぶし銀の選手が一橋学園駅の商店街で買い物していた姿をよく見かけた。しかし、ご存じの通り、日立ベルフィーユはもうこの世には存在せず、日立武蔵はルネサス武蔵と名称を変え、バレーボールの体育館は、去年から解体工事がすすみ、更地化されたいまは、特養老人ホームの建設が進んでいる(苦笑)
#追記 ただ、1977年のワールドカップあたりから、会場も中継も今の悪しきスタイルが形成されつつあった。サーブの時の「そーれ!」というかけ声も、この頃から定番になっていた。父曰く「声援しているつもりだけどおちつけなくて猫田が苦笑いしていた」日本偏重中継に関しても、女子は生沼スミエ、男子は松平康隆が解説で日本選手を持ち上げたコメントをしていた記憶が。このきっかけは、ミュンヘン五輪前からで、少しでもバレーに興味を持たせようとしていた、松平康隆の営業努力だったらしい。