きっかけは1995年

大学院の修論を完徹で追い込み作成していたとき、早朝6時前に一報が入った「関西で大きな地震が起こりました」というニュース速報。これが阪神大震災となり、この国の脆さや矛盾をさらけ出してしまった。そして、全壊し煙がくすぶっている無惨な住宅地を歩いて「まるで温泉のようだ」と妄言をはき「温泉キャスター」(by小林信彦)というレッテルを貼られた現在の「年金キャスター(苦笑)」。大学院の卒業が間近で、結局スーパーでバイト生活を4月からすることになっても、焦ってもいなかったときに、霞ヶ関で起きた「地下鉄サリン事件」。これをきっかけに全局「右へならえ」でオウム特番という「垂れ流し情報」を流し消費し続けた日本のマスコミュニケーション。これ以降、日本のマスコミは思考能力が皆無の白痴状態になったと言っても過言ではない。そして、一連の小室プロデュース華やかなりし頃、CDバブルが絶頂期で、これあぐらをかいてしまい、現在のソフト・モラルハザードが浮き彫りに出ている現状。あらゆる意味で今、露呈されている問題が浮き彫りになったのがこの、1995年であろう。
.....と、前置きが重々しくなってしまったのが(笑)、本題は日本のバレーボール中継がいつ頃から、あんなことになってしまったかを考えていたら、偶然、95年のワールドカップバレー中継が、あのスタイルの礎になったのではと気づいたのである。当時の環境を考えると。Jリーグはまだ、バブル的存在で浮かれ気分になっていたし、プロ野球長嶋茂雄が監督として初の日本一を94年に遂げ、Jリーグバブルへの逆襲を誓い盛り上がっていた頃。で、バレーボール協会もJリーグにあやかって、Vリーグ構想を立ち上げたものの、ものの見事に出鼻をくじかれ、大林素子や吉原知子は日立を解雇され、イタリアのクラブへ。男子は、中垣内祐一しかいない状況で泉川正幸南克幸の人気も、川合、熊田、井上に比べれば雲泥の差。こういった現状に危機感を抱いた?のまでは良かったのだが、その対応策が、ジャニーズ系アイドルを使ってそのファンを誘導しての観客動員増員作戦。そして、手っ取り早く、わかりやすくするための日本偏向の放送スタイル。この年からCXのメインは三宅正治が務め、松倉悦郎は蚊帳の外状況だった。実際、この年のワールドカップでは、絶叫だけして、試合の展開を無視した実況をしていた聞き覚えのないアナウンサーが一番うざかった。それが、一時期F1中継も担当していた、テレビ静岡の鈴木敏弘アナウンサーであった。これで、バレーの中継を見るのがおっくうになったと言っても過言ではない。ただ、後々になって、いちばんうざかったのかもと思えるのが、会場で日本戦直前に煽りまくって盛り上げていたDJ赤坂泰彦であった。いきなり「チームジャパン」と叫んでも、どうしようもないであろう。しかもどこかの会場では宙づりになって、会場を飛び回っていたし..V6じゃなくて赤坂泰彦がやったというのがしょうもない。実際、ミリオンナイツでラジオDJ復活を遂げた張本人と一時期もてはやされていたが、結局は、小林克也やウルフマンジャックの上っ面だけをまねていただけだし、選曲なんかも自分生石と言うよりは、レコード会社がよいしょしてくれるかくれないかという感情で左右されたという話もあるし、ミリオンナイツで名物コーナー扱いされていた「うさんくさいポップス」も、元ネタはコサキンで取り上げられた意味ね〜曲をそのまま頂いたものが多かったような気がする。結局、ボキャブラ天国でのお笑い芸人に対する批評や、スポーツ番組でのアンカーマンのやっていた仕切方を見ても「巨泉ニズム」*1なタレントだったのかもしれない。
こうしてみると、1995年は結構、分析しがいのある年かなと感じた。

*1:参考ダイアリー id:REDDEVILS:20040315#p1