「プレイングマネージャー」古田敦也誕生

正直言えば、選手と監督の2足のわらじを履くことは至難の業である。ましてや、故障がちといえども、主力選手である。藤村富美男は晩年で、自らを代打の切り札として、どこで出ればおいしいかと言うことを考えていたようである。「代打、わしや。藤村富美男や」と審判に言ったというエピソードもある。直系?の師である野村克也にしても、南海時代に選手と兼任で監督を務めたときも、グラウンドでのプレーの目配せに精一杯で、ベンチワークは全く出来なかったという。そのために、ドン・ブレイザーを招聘したのだが、野村紗知代とのスキャンダルも絡み、いわゆる「野球にも政治の世界があった」という言葉を後にし、南海から追放されてしまった*1。当然、旦那の仕事に無関心で自由気ままに仕事をしている中井美穂が野村紗知代のようなフィクサーになることはないであろう。もしかしたら、立命館のコネクションを駆使して長谷川滋利あたりを緊急来日させて「助っ人日本人」としてスワローズに入団させるというサプライズもあるかもしれない。色々と外野の手練手管に振り回されて、尻すぼみになってしまう可能性もある。ただ、前述した二人と同様に目立ちたがり屋な気質も持っている男であるから、「記憶に残るプレイングマネージャー」になる可能性は高いであろう。

*1:ちなみに、大阪球場跡地近辺にある南海ホークスのメモリアルホールには、野村克也という名前は一触れていない。このことは「僕の名前もあるのに、なんで、南海の一時代を築いた野村克也のなまえが無いのか?南海グループの器は非常に小さい」と江本孟紀が批判していた