万国博覧会と私

紆余曲折を経て半ば強引気味に開催までこぎつけたことを、すっかり忘れてしまっているかのごとく(苦笑)、各マスコミュニケーションが盛り上げようとしている「愛・地球博」。私自身、伝説的に語られている「大阪万博」が開催された1970年に生まれており、自分の名前のも「大阪万国博覧会」の中から一文字あやかってつけられている((どの一文字かは一部識者にはわかるであろうが(爆)))。文春でもグラフで特集されたり、大阪万博のアーカイブス的なHPもいくつかあって見たりしているのだが、その当時の躁状態ぶりは、今となっては喜劇的に見えてしまうくらい呆気にとられてしまう。もっとも、わが家でも、叔父が難産の末に生まれた自分を見て間もなく「じゃぁ、これから万博に行くから後は頑張って」とさっさと出かけてしまったくらいである。それにしても、万博が日本で開催するだびに出てくる「嘉門達夫の『大阪万博』自慢話」は何とかならないものか?(苦笑)。91年の「大阪花博」開催時にも数多くの「70年万博」話をひけらかしていた嘉門達夫には辟易していたのだが、これとは対照的に「EXテレビ」で「真の大阪出身者は70年の万博は無視していた。ましてや京都出身の私なんか、まったく興味がなかった」と言っていた上岡龍太郎と「僕も大阪万博は一回も行く気はせんかった」と上岡の意見に呼応していた島田紳助の姿は、いかにもという感じがして当時としては印象が強かった。
リアルタイムで万博を直接体感したのは、1985年の「つくば科学万博」である。実際、科学万博には一回も行っていないし、万博そのものにはあまり興味は示さなかった。一番記憶に残っているのは、万博開催中、TBSで月〜金に放送されていた「EXPOスクランブル」という万博宣伝番組であった。なんといっても月曜のMCで実質、最初のメイン番組を務めることになったとんねるずの勢いとパワーが鮮烈に残っている、黄色(石橋貴明)とピンク(木梨憲武)のはでなつなぎの衣装で特設スタジオを飛び跳ねていた二人が、よもや2005年に星野仙一とあいだみつおを演じているとは当時誰が思っていたであろうか(苦笑)。これが原因で4月に始まった「夕焼けニャンニャン」において、月曜だけはVTR収録の1コーナーしか出ていなかったのは、知る人ぞ知る話である(代わりに出ていた三宅裕司が、浮きまくっていたのも印象深い)。
「大阪花博」については、アトラクションがトラブル続きで、DVD版で記録されている桂米朝の「地獄八景亡者戯」(91年収録)でもこれをくすぐりネタで使っているのが面白かった。
さて、「愛・地球博」に関して言えば、加藤晴彦熊田曜子天野ひろゆきといった「東海人」がこれを機に高感度アップを狙っているような気がしてならない。それとは逆に「も〜『愛知万博』なんて、何の金儲けにもならへんかった」と大声でわめいている5年後の坂東英二の姿が見えてもいる。
開会式は、NHKラジオでパラパラ聴いていたのだが、野村万作一門の狂言を聴いていてはだか電球の「狂言で鬼ごっこ」をやっているのではと思ってしまった。そして、浜崎あゆみは、沖縄サミットにおける安室奈美恵と同じ没落の道を歩むエポックメーキングになる国家イベントでのミニコンサートを展開していた。にしても、長野オリンピックといい、森山良子というのは、この手のイベントの御用達歌手になっているのは、何とも微妙である。